気づきの伝道師 藤井一規です。
私たちはなんのために生きているのでしょうか?
答えは人それぞれかもしれませんが、
共通点もあるかもしれません。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/19651/
コンタクト先
https://www.facebook.com/kazunori.fujii.167
この記事の目次
「お互いの人生をもっと楽にするためでないのなら、私たちはなんのために生きているのでしょうか?」
by ジョージ・エリオット(英の作家)
最初に言葉と出会ったときは、これって本当だろうか?
という疑問だった。
自分の幸せのために生きるのなら、
わかるような気がしたが、
お互いの人生を楽にするためということは、なんだかピンとこなかった。
もうしばらく考えていく。
<自分の幸せ>
幸せになりたいという気持ちは、
素直に理解できる。
自分が幸せになるために生きているというのなら、
すぐに「そうだ」と思ったかもしれない。
しかし、お互いのため、楽にするためというのは、
どうなのか、よく考えてみる必要があると感じた。
そこで、まず、自分の幸せのために、
誰かが不幸になるとしたらどうだろう?と考えた。
自分か、誰かか、どちらか一方しか幸せになれないのだとして、
その選択権が自分にあるとしたら?
もちろん自分が幸せになりたい。
しかし、自分が誰かを不幸にしたという思いが残りそうだ。
どうやら自分だけが幸せになればいいという考え方には、
問題点がありそうだ。
<誰かの幸せ>
だからといって、誰かだけが幸せになって、
自分が幸せにはなれないのだとしたら、それも嫌だ。
しかし、愛する誰かのために、
そういう選択をする人もいる。
そうすることが、納得感や満足感をもたらすことがあり、
痛みを伴いながらも、それを超える喜びを手にしているのかもしれない。
ただ、やっぱり自分も素直に幸せだと言える状態が望ましい。
<もっと楽に>
また、楽になるということと幸せとは、
全く違うように感じていたけれど、
幸せな状態を考えてみると、こころが楽になっているはず。
大変さや苦しみを感じながら、それ以上のものを手にするという幸せもあるかもしれないけれど、
大変さや苦しみから離れた幸せのほうが、望ましい。
もちろん、楽をして腑抜けてしまってもいい、というものでもないから、
単に楽になるためには、やはり違和感がある。
より高い能力や、成長していくためには、努力や鍛錬が必要だったりするからだ。
しかし、それも楽でいられる時間を得るためのもの、
という考え方ができるかもしれない。
完全に納得!というわけではないけれど、
この言葉の意味を考えてみる価値はあったように思う。