気づきの伝道師 藤井一規です。
誰もが幸福になりたいと考えています。
しかし、ときに幸福が何なのかを見失ってしまうことがあります。
しばらく掘り下げていきます。
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この記事の目次
「幸福は人生の意味および目標、人間存在の究極の目的であり狙いである」
by アリストテレス(古代ギリシアの哲学者)
誰もが幸福を求めている。
その通りだと思うと同時に、
幸福とはいったい何だろう?という疑問もわいてくることがある。
もうしばらく、掘り下げていく。
<幸福という文字の成り立ち>
福という字は、衣篇から「衣服」
田から米を得られることから「食」
一口から屋根と部屋で「住まい」
衣食住がそろうことを意味している。
たしかに、衣食住は最も基本的な欲求と言われ、
確保されていることは幸福感のもとになりますね。
そして、幸いという字は、
字は「手かせ」から来ているといわれている。
手錠だと言ってもいい。
死ではなく、手かせで済んだことを幸いと捉えること。
これは、私たちが幸いを何かと比べて考えがちであることを示している。
また欲望に飢えた状態と、
欲望が満たされた状態との比較から幸福感を得ていることも多い。
<幸福を得たい>
比較、相対的なことから幸福を捉えていると、
幸福感を得られるはずの状態が、
一瞬にして幸福感が得られなくなってしまう。
比較の対象が変わった瞬間に
幸福なはずが、幸福でなくなってしまいかねない。
なぜなら、どれだけ素晴らしい状態にあったとしても、より豊かな人がいたり、
人の想像力が無限なために、より素晴らしい状態を想像できてしまうからだ。
人は一旦手にいれてしまったら、
その状態が当たり前になってしまう可能性がある。
<すでに幸福>
相対的な幸福に対して、
すでに私たちは幸せである、という考え方がある。
今、ここに存在すること自体が幸せだ、と捉えるものだ。
幸福になろうとする必要はなく、すでに幸福であり、
そのうえで何ができるか?を考え、行動することだ。
たしかに、今、この自分の命があるのは、
ものすごい奇跡のようなラッキーな出来事だ。
この幸運を幸福と捉えてもいいのではないか?
この幸福のもとでなら、何かのために努力したり
苦労したりすることがあってもいいかもしれない。
そう考えてみる価値はありそうだ。