気づきの伝道師 藤井一規です。
日本の学校教育には様々な問題があると指摘されています。
しかし、教育は学校だけが全てではありません。
家庭でも会社でも社会でも、日常生活のいろいろな場面で行われているはずのものです。
だから、教育とは何なのかについて、考えておくことには意味があります。
しばらく掘り下げていきます。
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この記事の目次
「教育とは、人々が知らないことを教えるのではなく、実例によって道を拓いてやる不断の困難な仕事である」
by ジョン・ラスキン(英の美術評論家、社会思想家)
子供から、どうして勉強しなくちゃいけないの? と聞かれて、
あなたはすっきりと答えることができるだろうか?
子供は勉強するものなの!
なんて答えてはいないだろうか?
もうしばらく、掘り下げていく。
<勉強はなんのため?>
人は、生まれたままでは、人間として生きていくことができない。
成長し、独り立ちしていくうえで、
大切なことは一人一人が学び取っていかなくてはならない。
人々は、より生産性の高い社会、理性的な社会を生み出すためには
若い子供たちのレベルアップが必要だと気づくようになった。
そこで多くの国や地域は、学校のような教育の場を設けるようになり、
一定の年齢になったら、子どもたちを教育の場に行くようにした。
ある意味、勉強することを当たり前のものとした。
ところがそれが却って、何のために勉強するのか
わからないままの人々を生み出してしまった。
また教える内容も、知識偏重になったり、
何に役立つのか?という視点は無視されたままになっても
気づきにつくい状態を生み出してしまった。
<現代教育の問題点>
日本の多くの学校では、生徒はひたすら先生から言われたことを暗唱すればいい。
そして、問題を起こさない。
それが良い生徒だったりする。
子供なりに悩んだり、戸惑ったり、苦しんだりして、
立ち止まったりしているとカリキュラムから置いていかれ、
落ちこぼれてしまったりする。
深く考えたり、疑問を持ったりすることが
人生の邪魔になってしまったりする。
本来、疑問を持ち、考え、行動してみて、結果から学んだり、
そこから、さらなる疑問を持ったりすることこそが重要なはずなのに、
考えることを放棄したり、刹那的な喜びがあればそれでいい
と言う子供たちを増やしてしまった。
そしてその子供たちが親となり、
仲間や、地域や社会のことより、自分さえ良けれいい、楽しければいい
という考え方の問題点を指摘することができない状況を増やしてしまった。
<教育>
教育は、教え育てると書くけれども、
教えるとは何だろう?
誰もが守らなければならないルールであったり、
基本の型や原理原則、基準のようなものは、一律に教えることができる。
しかし、実際にはこうしたことだけでは、現実を生きていくことは難しい。
社会生活は教科書のようにいくとは限らない。
原理原則を大切にしながらも、
その場、その場での判断や行動が求められる。
「この場合は、これだ正解だ」と、すべてを教えることは不可能だし、
答えを覚えておくことも無理だ。
過去の経験をもとに、
うまくいったのであれば、なにがうまくいった原因なのか?
うまくいかなかったのであれば、何がうまくいかなかった原因なのか?
を考えるような習慣づけや、
参考のために他にどんな選択肢が考えられるかを示したりしながら、
本人が自分で考え、自分なりに答えを出し、
経験を積みながら、より望ましい答えにたどり着く能力を
身につける機会をもたらすことこそが、
人として一人立ちできるように育てるということになる。
教育は、教えることよりも、育てることの方に重点があるはずなのだ。