気づきの伝道師 藤井一規です。
戦国時代に生まれた大名は、いかに安心できる国をつくるかに苦心していた。
あちこちで争いが起こったり、
他国から攻め込まれることもあった。
戦国時代最強の武将の一人ともいわれる上杉謙信の言葉から
しばらく掘り下げていきます。
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この記事の目次
「我が命のある間、国家を裏切る者を平らげ、諸国を一つに帰して、貧困に陥った人々を安住ならしめる他に希望はない。
もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜るべし」
by 上杉謙信(武将、大名)
一国の頭領であるならば、この乱れた社会をいかに安心できるものにするか。
自らそれを成し遂げようと考えていた。
その覚悟が伝わってくる。
もうしばらく掘り下げていく。
<戦国時代>
世の中の仕組みが乱れ、武士が力を持った戦国時代、
新しく力を持った者同士が、勢力争いをするようになった。
一つの国と言いながらも、地域を治める者同士が争うことは珍しくなかった。
この頭領にならば従っていこうと思われなければ、
途端に乱れを止めるすべを失ってしまう。
上杉謙信の一国の頭領たる者として生きていこうという決意が伝わってくる。
<越後守護代として>
戦国時代は、越後と呼ばれた地域も大きく乱れていた。
あちこちで争いが起き、裏切りや反逆もたくさんあった。
とても安心して暮らせる状況にはなかった。
越後守護代の子として生まれた謙信も、
とても安心していられる状況ではなかった。
彼は、自らが安心して暮らせる国をつくろうと、立ち上がり
先頭に立とうと志した。
もし運がないのであれば、潔く死ねばよいと。
<強さだけでなく>
武芸についても抜きん出ようとしたが、
国を平らかに治めるには、
武力だけでは難しい。
チカラで奪ったり、抑えつけたりすることはできるけれど、
強引なだけでは長くは続かない。
優れたリーダーは、武力以外にもチカラを発揮している。
謙信も物流や物産には力を入れ、地域の経済活動を盛んにしていいた。
民が経済的に恵まれた状態にすることが
安心できる社会には重要なことだ。
謙信の死後、春日山城には3万両近くがあったという。
それだけ、地域が潤っていたということ、
また謙信が倹約に努めていたことがわかる。
謙信が進めた施策についてもっと掘り下げる価値がありそうだ。