気づきの伝道師 藤井一規です。
私たちは、栄養を取っていかなければ、生きていけません。
多くの命をいただくことで生きることができています。
しばらく掘り下げていきます。
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この記事の目次
「子羊を食らう前に泣く狼と、泣かない狼では、どちらがより酷いだろうか」
by レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(ロシアの小説家、思想家)
オオカミは生きるために、他の動物を食らう。
例えばそのために子ヒツジを捕らえたとき、
食らう前に泣くオオカミはいないだろう。
食べようとするヒツジの命のこと、そのヒツジの親や兄弟や、
友だちのことを思ったりできるのは、私たち人間だ。
もうしばらく掘り下げていく。
<食らう前に泣くオオカミ>
もし、オオカミが子ヒツジを食らう前に泣くとしたら、
その命のことを想っていることになる。
その命が失われることの意味を分かっていることになる。
しかし、それでもオオカミ自身が生きていくためには食べなくてはならないし、
小さな子供がいれば食べさせていかなければならない。
仏教でいうところの業(ごう)を背負っていることを意識している。
それだけ、高い意識レベルにあることになる。
<しかし平気で食べる>
ところが、命をいただく意味を知っているにもかかわらず、
命を奪ったあとのものを食べる前に、
泣いている人がいるだろうか?
私は見たことがない。
当たり前のように食べている。これは何を意味しているのだろう?
ふと、
子供のころ、参加したサイバイバルキャンプで、
生きている鶏が晩御飯の材料として提供されたことがあることを思い出した。
そのときは、鶏を捕まえるところから始める必要があった。
捕まえて、命を奪い、血を抜き、羽をむしり、解体し、、、
子供だった私にとっては何ともキツイ体験だったが、
だからといって作った料理を食べられない、
ということにはならなかった。
ただ、日々何らかの形で命をいただいているんだ。
ということは、強く心に残った。
<命をいただいて>
罪や業に気づいていながらも、
なおしてしまうことは、より業が深いということになるかもしれない。
しかし、私は食べようとする物に泣いたことがない。
その代わり、感謝の気持ち、祈りの気持ちを持つようになった。
食事の前に儀式をする人たちは世界中にいる。
手を合わせて「いただきます」もその一つだと言える。
いつも深く感じ入っているとは言えないけれど
あのときから「いただきます」が単なる習慣の言葉ではなく、
感謝と祈りが加わった。
弱肉強食もひとつの自然のバランスを維持する仕組みではあるが、
だからといって、欲のために根こそぎ生態系を壊すような捕食はおかしい。
結局自分たちに痛みが返ってくる。
私はたくさんの命を、恵みをいただいて自分の命をつないでいる。
今日もありがたいことに感謝し、祈りながら生きていきたい。