気づきの伝道師 藤井一規です。
恥をかくことって避けたいことだったりします。
しかし、恥を覚えること自体は悪くないのでは?
という考え方もあるようです。
しばらく掘り下げていきます。
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この記事の目次
「より多くのことを恥じているほど、より敬意に値する」
by ジョージ・バーナード・ショー(アイルランド出身の劇作家、社会主義者)
恥ずかしい、という思いは
自分の価値を打ちのめすようなこともあるが、
再びあの恥ずかしい思いをしないように、
努力を導くという効果もあったりする。
もうしばらく掘り下げていく。
<恥の感覚>
日常を過ごす中で、誰かから指摘されないからといって、
守るべきことを守っていない人がいたりする。
守るべきことだったと気づいたときに、
恥ずかしさを覚える人のほうが、好感を持てる。
今後は、その恥ずかしさを感じないで済むようにしていく可能性が高いからだ。
ああ、指摘されないでラッキーだった。
というような受け止めだけの人だとしたら
次もまた、こっそりルールを破ってしまったりする。
恥ずかしいという感覚は、成長の役に立っているのだ。
<恥を感じることと辱めること>
自ら恥じることと、誰かから辱められることは全く違う。
自ら恥じるのは、望ましい方向に向かいやすいが、
誰かから辱められるとき、その相手を恨んだりしやすい。
だから、相手が悪いことをしたからと言って、
公然と辱めるような行為は、
心に大きな傷を負わせるような行為だと言える。
個人が大きな発信力を持つ時代、
気づかないうちに、とんでもない暴力をふるってしまう可能性がある。
気を付けていきたいことだ。
<何を恥と捉えるか>
私たちは誰もが、何らかの成長をしていくことができる。
どんなに素晴らしい成果を出していても、
さらに上のレベルを目指している人にとっては、
恥ずかしい部分が残っている。
よりたくさんの恥を感じられる人は、
それだけ高いレベルを求めているということができそうだ。
同じことをしていても、
満足する人もいれば、このレベルでは恥ずかしいと思う人がいるってことだ。
より高いレベルを目指して、生きていきたいもの。