気づきの伝道師 藤井一規です。
日本は義理を大切にする傾向にあると言われます。
義理を果たすのは当然だ!と思う人は多いかもしれません
しかし、本当にそれは望ましいことなのでしょうか?
しばらく考えていきます。
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この記事の目次
「義理などは夢にも思ふことなかれ 身をしばらるるものなり」
by 坂本竜馬(江戸時代末期の志士、土佐藩郷士)
義理に縛られるのはいかがなものかと、
竜馬は言った。
しかし、そうドライに割り切れるものではない。
義理人情ってやはり大切にしたいところもある。
もうしばらく掘り下げていく。
<義理と人情>
私たちはときに、義理というやつに振り回されることがある。
もちろん、人生相見互い、困ったときはお互い様。
困っている人を助けたりすることは素敵なこと。
しかしこれは、何も義理を生み出し、
恩返しを強要するものではないはず。
見返りを期待した行為ではなかったはずなのに、
恩を受けが義理があるはずだ。
という形で迫ったりするのは、何か違っている。
<恩義を返す>
日本では、鶴の恩返しなどのように、
恩義を受けたら返す、というストーリーが
美談的に語られることが多い。
しかし、鶴の恩返しで果たされる義理は、
鶴自身の羽を抜き取り、痛めながら布を織ることであったりして、
鶴の身体を傷つけ、大きな負担をかけるものだ、
ということも示している。
鶴を助けた老爺は、鶴が身を削って恩返しをしてくれることを
望んでいたわけではないはずだ。
罠にかかった鶴を、純粋にかわいそうに思い、できることをしただけだった。
義理を返さすのが当たり前、と考えるとき、
無理を強行したり、強要したりすることになっていることが
多いのではないだろうか。
ときにルールを破ることさえいとわず
迫ったりする。
<義理との付き合い>
どうやら義理を持ち出すときというのは、
ルールを捻じ曲げたり、
無理を通そうとするときの方が多い。
もちろん受けた恩のありがたさを感じることは素晴らしいことだ。
しかしそれは自然に湧き上がってくる気持ちに従って、
できる範囲で対応していくことで良くて、
受けた人に義理を返さなければならないと考えるのとは違っていそうだ。
私たちも、ときに恩があることを盾にして
義理を果たせと相手に迫るのは変であって、
過剰に義理を感じて無理をして、自分を偽ったりする必要はないと
考えたほうがよさそうだ。