気づきの伝道師 藤井一規です。
完璧さを求めている人は多い。
それがゆえに、苦しい思い、緊張感を強いられていることも。。。
今日は、この完璧を求めること、手放すことについて考えてみたい。
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この記事の目次
「完璧を恐れるな。
完璧になんてなれっこないのだ」
byサルバドール・ダリ (西の画家)
完全や完璧を求める人は多い。
もちろん、完璧を求めることで得られるメリットもある。
常に向上心を持ち続けることそのものは、望ましいこと。
しかし、完璧を意識するとき、
どれほど向上していても、
そこに至らないものは、価値がないものとして、
否定的に捉えてしまうことが多い。
それは、永遠に価値を認められないことにつながりかねない。
<完璧を求める心>
人は、なぜ完璧を求めるのだろう?
完璧なものは何を与えてくれるのか?
その答えのひとつは、完璧なものは
安心・安全を与えてくれるところにある。
まず、生まれてきたとき、親は完璧・完全な存在として
安心・安全を届けてくれるように感じられる。
しかし、あなた自身も気づいているように、
成長していくと、大人だから、親だからといって、
完璧な存在などではないことがわかっていく。
口で言っていることと、
やっていることが一致しないこともあるだろうし、
なんでもやってのける能力があるわけでもない。
これは、社会性が高まっていく証拠でもあるのだけれど、
大きな衝撃を与えるものとなる。
それは、完璧でない親を攻撃したり、反抗したり
という形で現れたりする。
そして、幻滅したり、自分は違うぞと完璧になろうと
頑張ってみようとする。
しかし、自分もまた、完璧ではないことに気づく。
それでも、完璧を求め続けていると、
求めるものはどんどん厳しくなっていくことになる。
厳しくなる方向には、
自分に厳しくなっていく方向と、
周りの人に厳しくなっていく方向とがあり、
どちらも、息苦しさを生み出しやすくなる。
<自分に完璧さを求めると>
自分に厳しくなっていくと、
成長していく面ももちろんあるのだが、
自分に幻滅してしまい、自分を傷つける度合が高くなっていく。
そして、完璧を求めれば、求めるほど、苦しくなっていく。
ときには、完璧にできないことには
手を出さないようになってしまい、
周りから怠惰だと思われてしまったりすることもある。
<他人に完璧さを求めると>
自分が一生懸命、努力して完璧を求めていると、
周りにも同じように、完璧さを求めてしまったりする。
「自分がこんなに頑張っているのに、あなたはどうして!」
という思いに囚われてしまいがち。
周りの人たちが、いかに努力していようとも、
結果だけを捉えて、つい攻撃をしてしまったりする。
<完璧を手放す>
人は完璧ではない。
できないこともあるし、うっかりしてしまうこともある。
それは、自分も含め、全ての人に当てはまること。
それを認め、受け入れる心をもっていきたい。
成長する可能性や、よりよくしようという姿勢を認め、
今すぐの結果だけに囚われないようにしていきたい。
それだけで、ものすごく楽になることに気づく。
<欠けているところを埋めあう>
人はそれぞれに、特徴があって、
得意・不得意もあったりする。
誰もが不完全だからといって、
全体が不完全になるということではない。
私たちは、お互いの欠けているところを埋めることができる。
もちろん、欠けたところは放置、と決める必要はないけれど
不完全同士だからこそ、カバーし合うことがしやすかったりする。
却って単独で完璧であろうとしすぎるよりも、
大きなつながりを生み出すことだってできる。
そう、完璧は手放すことができる。
不完全であることを認め、受け入れて、
カバーし合っていくことに、人間らしさがある。
完璧は手放してよいのだ。
【完璧は手放してよい】