8歳の子が
アメリカンドッグを食べながら
「どっち派?」
と問うてきた
どっちってどっち?!
聞いてみると
スポンジ(?、周りのとこ)か
ソーセージか
で どっち だった
その子はまず
周りをぜーんぶ食べてから
ソーセージを食べるのが
好きなんだって
だからソーセージ派
わたし いっしょ派
と答えたら
「え~~~(・へ・)
絶対こっち(=ソーセージ派)のがいいよ」
と言って
残りのソーセージを食べていた
いっしょ派 を
否定しなかった
あの子は
自分のすきと
わたしのすき
が
違っていても
自分を押し通さなかった
なんだか
それもあり
と言われているように感じた
普段子どもと
接する機会がないから
子どもは
自己主張をするものかと
思っていたわたしは
子どもって
大人なんだなと
その時思った
自分がいいと思うものと
違う選択をする人を
オカシイ
と思ったり
言葉には出さないけど
自分の方が優れてる
と思ったりする覚えがある私は
ジャッジ
している自分に
気付かされて
恥ずかしくなった
あらためて思い返してみて
今思うのは
子どもの方が自然で
大人が不自然になってて
子どもと接することで
大人には
自然を思い出す
チャンスがつくってあるのかなと
考えてみれば
いつからが大人なのかも
分からないし
なんとなく
二十歳を過ぎて
大人
として扱われることが
多くなって
いつの間にか
自分でも
自分は大人だ
と思うようになってた
そんな
気に留めることなく
寝て起きてを繰り返しつづける中で
子どもだった私たちは
大人になっていて
その間に
色んなものが
私たちに降り積もっていて
もともと持っていた
自然 とか
ほんとの気持ち
が見えなくなっちゃってたり
毎日
色んな人に出会って
色んな価値観にふれる中で
わたしは正しい
あなたは間違い
なんて
自分の価値観を
否定されちゃったり
ほんとは左だよねと思ってても
右向け~みぎっ
と言われて
ここでは右向いた方がよさそうね
なんて
自分の意志とは違う方を向くことを
覚えていったり
大きな声 強い口調に
圧倒されて
違うかもと思っても
伝えないことが
痛い思いをしないことだと
思うようになったりしていくうちに
気付けば大人
気付かぬうちに
色んなものが降り積もって
見えなくなって
忘れさえしている
元々のわたし
子どもに会った時
出てきたくなるのかな
いる
閉じ込めてる
に気付いたら
出してあげなきゃね
積もったもの
払い落としてあげなきゃね
そうしたら
ジャッジなんて消えて
わたしはこれがすき
が真ん中の毎日が
待っていそう
あなたが真ん中に置いているのは何ですか?