気づきの伝道師 藤井一規です。
自分が一生懸命に表現したときでも、
自分の表現したことをそのまま受け取ってもらえることもあれば、
違う受け止めをされることもあります。
しばらく考えていきます。
<ブログリンク>
http://shitsumon-alacarte.com/mental/17176/
この記事の目次
「詩人にとって最大の悲劇は、誤解によって賞嘆されることだ」
by ジャン・コクトー(仏の芸術家、詩人、小説家、劇作家、評論家、画家、映画監督、脚本家)
ジャン・コクトーは芸術は肉を付けた科学だと言ったという。
そんなジャンにとって、自分の作品を誤まった解釈によって褒めたたえられるということは、
耐えられなかったかもしれない。
伝えたいことを伝えること、評価されていくことについて、
もうしばらく掘り下げていく。
<受け留める自由>
自分が体験したことを
どう解釈するかは、受け留める人次第で変わっていく。
同じものを見たり、聞いたり、触れたりしても、
それがいったいどんな意味を持つのかは、
ひとりひとり違ってくる。
解釈は、その人ならではのものであり、
事実は一つであっても、その人にとっての真実は異なっていく。
<表現したかったことと受け留めのギャップ>
誰しも、表現したかったことを持っている。
自分の思いを伝えようとして表現している。
そして、それを様々な形で相手に伝えようとする。
しかし、自分の思ったことを表現しても、
その通りに受け留めてもらえるとは限らない。
このことは、当たり前だと言っていい。
しかし、表現したかったことが誤解され、
誤解された解釈が賞賛の理由となったとしたら、
戸惑いを感じることだろう。
しかも、自分の伝えたいままが受け取られていたら、
冴えない評価だったとしたら。。。
<誤解による賞嘆>
解釈は受け取る側の自由と考えて、
意図的に作品を提示したのなら、それもアリだけれど、
伝えたいことがあったのに、それとは違う解釈をされたとなれば、
表現の方法に何らかの課題があったということになる。
そして、それが賞嘆されたとなれば、悲しいと言えるかもしれない。
思わず、誤解されたことのほうを意図していたと、
ごまかしてしまうかもしれない。
次の表現をすることが、恐ろしくすらなってしまうかもしれない。
<それもチャンス>
意図してできたことではないかもしれないけれど、
誤解されて賞嘆されたことも
一つのチャンスかもしれない。
何が評価されるのか、改めて知る機会になる。
伝えたいことが伝わらなかった理由を探り、改善していく機会にもなる。
誤解で始まったことも、本物にしていくチャンスになる。